2019年3月22日

ホンダWGP参戦60年企画 グランプリ挑戦の軌跡・後編

ホンダWGP参戦60年企画 グランプリ挑戦の軌跡・後編

ホンダがWGPに初挑戦した1959年から、全クラスを制覇しサーキットを去った1967年までの第一期と、1976年ヨーロッパ耐久でサーキットに復帰し、1979年NR500で再びWGPへと参戦を開始するまでをお送りした前編に続き、後編は1980年代から2000年代初頭までホンダの常勝時代を支えた2ストロークマシンNS、NSR500をメインに、ホンダコレクションホール動態保存テストの模様からご紹介させていただこう。なお、巻末には日本人ライダーとして初めて優勝を飾った高橋国光選手の1961年第2戦西ドイツGPの実況録音を特別付録として掲載しましたので、お楽しみください。
●文:濱矢文夫・時野 実
●撮影:依田 麗
●取材協力:Honda
ホンダコレクションホール 
後編・4ストロークから2ストロークへ 1982年〜2002年

 1979年WGPへの復帰に際し、ホンダはあえて4ストロークのNR500で参戦した。革新的なマシンであったが新技術ゆえの試行錯誤も多く、実戦において結果を出すことは容易ではなかった。「レースは走る実験室」とは言え、勝てない技術には意味はあっても意義がないこともまた事実。ついにホンダ初の2ストWGPマシンNS500が製作された。フレディ・スペンサーとNS500は1982年第1戦アルゼンチンGPでデビュー。第7戦ベルギーで初勝利を飾り、勝てるマシンであることを証明した。1983年は参戦2年目で早くもチャンピオンを獲得、世界の頂点へと返り咲いた。
 1984年からは新開発90度V4エンジンのNSR500が登場。以降NSR500はモデルチェンジする度にビッグバンエンジン、スクリーマーエンジン、Vスペックエンジンなどの愛称で呼ばれるほど注目される、WGPを代表するブランドであり、ライバルと切磋琢磨を繰り返し、ホンダのWGP通算500勝に大きく貢献した。また、NSR500のエンジンレイアウトを半分にしたようなNSR250もワークスマシンとして誕生。このモデルの公道版レプリカのNSR250Rもまた、レーサーレプリカブームを代表する人気車であった。NSRシリーズは、たぶん二度と訪れることはないであろう2ストロークエンジンの頂点にふさわしいワークスレーサー、市販モデルであったことは間違いない。

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1984 NS500

 なかなか結果に結びつかない4ストロークのNR500と並行して2ストロークマシンの開発が本格始動したのは1981年初頭だった。1960年代のWGP参戦時からホンダは常に独自の道を選択し勝利を重ねた。もちろんニューマシンもそうだった。サーキットによっては500ccクラスと当時あった350ccクラスとのタイム差が小さいところに注目。プロジェクトがスタートした頃はクランク2軸の4気筒エンジンが主流だったが、パワーで負けても、コンパクトに作れば十分に戦える。そこで前が1気筒、後ろ2気筒の一軸クランク112°V型3気筒というこれまでにないレイアウトの小さなエンジンを作り上げた。
 前面投影面積の小さいスリムなフェアリングの小柄な車体に仕上げられたNS500は、参戦初年度の1982年若き新人フレディ・スペンサー、前年チャンプのマルコ・ルッキネリ、NRで3年戦った片山敬済らに託された。
 初戦からスペンサーが表彰台、第7戦ベルギーGPで渇望していた勝利を手にした。そして今でも伝説になっている1983年シーズンがやってきた。NS500とスペンサーは驚異的な走りを見せ、最終戦までもつれたケニー・ロバーツと激しい一騎打ちを制し年間チャンピオンを獲得。21歳8ヶ月のチャンピオンは、マルク・マルケスに破られるまでトップカテゴリーを制覇した最年少記録だった。強いホンダの復活である。
 撮影した車両は、翌1984年にディフェンディングチャンピオンのスペンサーが4気筒NSR500と併用したもの。排気デバイスATAC装着やCRFPのパーツを使っての軽量化など進化と熟成を重ねたNS500は、その後も多くのライダーが乗りグランプリで素晴らしい戦績を残した。

NS500

NS500

NS500

NS500

NS500

NS500

NRで得たノウハウと、散々苦労した点を逆手にとった発想を取り入れたホンダ初の2ストWGPマシンNS500。初戦から絶対王者的な存在キングケニーことケニー・ロバーツと大接戦を見せた。撮影車はNS500のほぼ最終スタイルである1984年モデル。すでにNSR500が登場していたが、フレディ・スペンサーがコースにより使い分け第5戦と第9戦で優勝している。

●エンジン:水冷2ストロークV型3気筒ピストンリードバルブ ●総排気量(内径×行程):498.6cc(62.5×54mm) ●最高出力:130PS以上/11000rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:119kg以上 ●タイヤ前・後:16インチ・17インチ

1984 NSR500

 3気筒のNS500は1983年、ライバルの4気筒勢を向こうに回してフレディ・スペンサーがチャンピオンになったが、小さく軽くしたことによる有利の反面、コースによってはパワーの差が不利に感じることもあった。毎戦ごとに強くなっていく相手と戦うために、さらなるパワーが必要で4気筒化は自然の流れであった。
 1983年のシーズンはNS500を改良していく一方で新しい2ストローク4気筒の開発も進めた。NR、NSと前例のないものに挑戦するホンダのチャレンジ精神はここでも発揮された。誕生した最初のNSR500は、低重心化を狙いガソリンタンクをエンジンの下側に配置、チャンバーは一般的に燃料タンクのある位置を通る革新的なレイアウトを採用していた。太もものようなチャンバーが上部に美しく並び、アルミダイヤモンド型フレームの下側に取り付けられるアンダーカウルをかねたアルミ燃料タンクに誰もが驚いた。90°V型4気筒エンジンは、ライバルの2軸クランクよりコンパクトな1軸クランク。
 このNSR500を与えられたのは、誰も真似できない独特のコーナーリングをする天才と呼ばれたフレディ・スペンサーひとりだけ。急激にトルクが立ち上がるエンジン特性も含め彼の専用機だった。最初から速さを見せ、第2戦にポールポジションから大差で勝利したが、新技術ゆえの熟成不足などにより、安定した走りに結びつかなかったもののNSRは3勝を挙げた。最終的にはスペンサーのケガにより残り3戦を欠場。チャンピオンは逃してしまった。
 革新的なこのマシンを、ランディ・マモラ、ロン・ハスラム、レイモン・ロッシュらもライディングし、第10戦イギリスGPでマモラが優勝した。その独自性から、初代NSR500は、記憶に強く残るマシンとなった。

1984 NSR500

1984 NS500

1984 NS500

1984 NS500


1984年はさらなるパワーアップのため新開発の90°V4エンジンをアルミセミモノコックフレームに搭載、燃料タンクをエンジン下に配置するなど革新的なレイアウトのニューマシンNSR500が投入された。フレディ・スペンサーによりイタリア、フランス、ユーゴで3勝を挙げた。しかし整備性などが問題となり、独特のレイアウトはこのモデル限りとなった。撮影車はイタリアGPでフレディ・スペンサーが優勝した仕様。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499cc(-×-mm) ●最高出力:140PS以上/11500rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:135kg ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

1985 NSR500

 1984年の7月、ラグナ・セカで開催されたAMAのレースにNSR500で出場したフレディ・スペンサーは、予選中に転倒し鎖骨を折ってしまう。このためWGPの残戦を欠場し、チャンピオンを逃した。それでも最速のライダーとしての評判は下がることはなかった。
 ケガが癒え万全の体調で挑んだ1985年シーズンは後世まで語り継がれる500ccクラスと250ccクラスのダブルエントリーに挑戦をした。1960〜70年代はダブルエントリーが普通だったが、各クラスの専業化が進んだ1980年代中頃では、拮抗したつばぜり合いを繰り広げる250ccを走ったすぐ後に大パワーをねじ伏せるように操る高速化した500ccのレースに出るなど、体力面だけでなく精神面でももとんでもないことであった。
 この年のNSR500は90°V型4気筒というエンジンレイアウトは踏襲したが、燃料タンク、チャンバーが逆のレイアウトは通常に変更。すべてのシリンダーが前方排気となり、チャンバーはエンジン下を通り左右2本出しされる。出力をアウトプットするまでクランクを含め4軸のレイアウトは、プライマリーシャフトを取り除き3軸となった。クランクはタイヤとは逆回転していたのがタイヤと同回転方向となった。
 RS250RWと呼ばれた250ccマシンはそのNSR500のエンジンを真ん中で割ったような、ボアストロークが同じV型2気筒のまさにスペンサースペシャル。ロスマンズ・インターナショナルがスポンサーになり、スペンサーは両クラスとも通称ロスマンズカラーのマシンで出走。蓋を開けてみれば500ccクラスは12戦中4連勝を含む計7勝、250ccクラスは6連勝を含むこちらも7勝でダブルタイトルの偉業を成し遂げた。スペンサーがトップクラスで年間チャンピオンを獲得したのは2回。これよりもチャンピオン獲得回数の多いライダーはいるが、このアメリカ出身のライダーが語り草になっているのは、誰もが認める圧倒的な速さでNSRを走らせたからだろう。

1985 NSR500

1985 NS500

1985 NS500

1985 NS500

1985 NS500

1985 NS500

1985 NS500

独創的だった初代から、タンク位置やチャンバーの取り回しがオーソドックスなレイアウトに変更された2代目となる1985年のNSR500。新開発のアルミ目の字断面ウルトラライトフレームや、ハイパワーなエンジンで戦闘力を格段に高めた。ロスマンズカラーのNSRは、フレディ・スペンサーとのコンビで、出走した全11戦中7勝を挙げる圧倒的な強さを見せ、NSR500の名を不動のものとした。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499.2cc(-×-mm) ●最高出力:140PS以上/11500rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:119kg以上 ●タイヤ前・後:16インチ・17インチ

1988 NSR500

 地元オーストラリアのレースに出場しているところをモリワキエンジニアリングの森脇護氏にスカウトされたことが、ワイン・ガードナーが表舞台に出るきっかけだった。1981年の鈴鹿8時間耐久ロードレースの予選でアルミフレームのモリワキモンスターを限界まで走らせ、当時としては驚異的なコースレコードを出しその才能を示した。それが目に止まり1983年のオランダGPでイギリスのホンダチームからWGP500ccクラスにデビュー。その翌年はイギリス国内の選手権に参戦する傍らでRS500に乗って5戦にスポット参戦。結果を出し続け、後半にはNS500のエンジンを与えられ、スウェーデンGPでは3位表彰台に登るなど全てでポイントを獲得した。ホンダワークスと契約し1985年からはNSR500で出走。翌1986年に開幕戦のスペインGPで初優勝し計3度の優勝。手首の痛みを訴え戦線離脱したスペンサーの穴を埋めるべく奮闘し、ランキング2位でシーズンを終え名実ともにトップライダーの仲間入りをした。
 スライディングをものともせずスロットルを大きく開ける彼の走りは見るものを熱くさせた。1987年はエースライダーとして挑んだ年。NSR500のエンジンは4気筒すべてが前方排気から、後ろの2気筒を後方排気に変更。Vバンク内にキャブレターを収めるスペースの問題もあり、挟み角を90°からNS500と同じ112°へと広げた。これにより各部品を設置の自由度が上がり、後ろ2気筒が地面と垂直近くになるよう目の字断面材を使ったツインスパーフレームにエンジンを搭載し、後方の排気はほぼストレートにテールカウル後端まで伸びる形状にできた。理論的に振動が出にくい90°から112°になったことでバランサーシャフトの役割をするプライマリーシャフトが復活して3軸から再び4軸になった。
 ガードナーは、この新型NSR500を操り15戦中7勝するだけでなく、全レースでポイントを獲得し世界一の王座に登りつめた。1988年はディフェンディングチャンピオンとしてゼッケン1を付け大きな変化をせず熟成したNSR500を走らせたが惜しくもランキング2位。1992年を最後に引退するまでシリーズチャンピオンは1987年の1度だけとなったが、豪快な走りに多くのファンがいた。

1988 NSR500

1988 NSR500

1988 NSR500

1988 NSR500

1988 NS500

1988 NS500

1988 NS500

撮影車した車両は1987年にチャンピオンを獲得したワイン・ガードナーが1988年にライディングしたゼッケン1番。増強したパワーに対してバランスが悪くなっていた車体回りを一新すべくニューフレームが投入された。全15戦中1位4回、2位6回、3位1回と表彰台を外したのは4回のみと、ヤマハのエディ・ローソンと激しい闘いを続けたが、チャンピオンは6勝を挙げたローソンに奪われてしまった。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499.2cc(-×-mm) ●最高出力:155PS以上/12500rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:120kg以上 ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

1997 NSR500

 1990年モデルでそれまでの90°に1回の等間隔で爆発していたものから、隣り合う気筒が同時に爆発する180°等間隔爆発を採用。これは大きなトピックだった。コーナーからの脱出時にいかにしてトラクションを失いにくくするかを追求した回答であった。そのひとつの到達点が1992年モデル。112°V型4気筒のレイアウトは変わらずだが、1番、3番の気筒が同時爆発し、少し間をおき2番と4番、こんどはあまり間をおかずに1番と3番が爆発という、位相同爆の不等間隔爆発、通称ビッグバンエンジンである。スロットルを開けた時に唐突にトルクが立ち上がらずリアタイヤがスリップしにくい。目指したのは4ストロークのような扱いやすさ。
 これでWGPを無双したのがマイケル・ドゥーハン(エントリー名はミック・ドゥーハン)であった。同じオーストラリア出身のワイン・ガードナーの後を継ぐかたちでエースライダーになった彼の速さはビッグバンエンジン初年度から4連勝を含む5勝と2回の2位とその速さを示したが、8戦目の転倒で負った足の大怪我が長引いた影響もあり、年間タイトルには届かなかった。9勝して初めてチャンピオンとなった1994年から1996年まで怒濤の3連覇を達成。ドゥーハンとビッグバンエンジンのNSR500は圧倒的な強さを誇り、ライバル車も不等間隔エンジンに追従した。
 ところが、1997年、エンジンを以前の等間隔爆発に戻したのである。電子制御技術の進化もあり以前の等間隔爆発と同じではないとはいえ、スクリーマーと呼ばれたこのエンジン積んだレプソルカラー(1995年から契約)のNSR500をレースで使ったのはドゥーハンだけだった。テストした他のホンダライダーは従来のビッグバンエンジンを選択している。それでもドゥーハンはなんと15戦中12勝、2位2回という恐ろしいほどの強さでチャンピオンに。続く1998年もランキング1位で終え、5連覇を成し遂げた。ドゥーハンは右足の怪我から足首の可動範囲が狭くなり、彼のマシンはその後、右足ではなく左手親指でレバーをプッシュする左手リアブレーキを採用しているのが特徴だ。

1997 NSR500

1997 NSR500

1997 NSR500

1997 NS500

1997 NS500

1997 NS500

1992年から同爆のビッグバンエンジンとなり、1994年から無敵の快進撃を続けるドゥーハンとNSR500だったが、1997年モデルではドゥーハンの要望もあり、あえて等間隔爆発のスクリーマーエンジンが投入された。そのエンジンを使いこなしたドゥーハンはみごとにチャンピオンを獲得した。それは「マシンではなく最後は腕だ」と言わんばかりの快進撃だった。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499.27cc(-×-mm) ●最高出力:185PS以上/12200rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:130kg ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

1999 NSR500

 絶対王者として君臨していたミック・ドゥーハンが、ディフェンディングチャンピオンとして挑んだ1999年。第3戦スペインGPの予選でヘレスサーキットの高速コーナーで転倒し、体の各部を骨折する大怪我を負い戦線を離脱。彼はこの怪我がもとでその年の12月に引退を正式に表明、ひとつの時代が終わった。
 NSR500は、1997年の圧倒的な勝利からドゥーハンだけでなくチームメイトの岡田忠之、アレックス・クリビーレもスクリーマーエンジン仕様にスイッチした。以後NSRは最後までこの仕様となる。王者が突然いなくなったシーズンは、チームメイトのアレックス・クリビーレ、岡田忠之とスズキのケニー・ロバーツJrが争った。その中でもアレックス・クリビーレが優勝6回、2位2回、3位2回と抜きん出て自身初のシリーズチャンピオンに輝いた。クリビーレは、小排気量から結果を残しステップアップしてきた1970年生まれのスペイン人ライダー。1989年に125ccクラスでチャンピオンを取ったが、その後の250ccクラスでは優勝もなく、ランキングも5位以内に入ったことがなかった。
 転機となったのが1992年、同じスペイン人のシト・ポンスが率いるチームでトップカテゴリーにステップアップしてからだ。クリビーレとNSR500は優勝含め表彰台に上がれるほどの速さを見せ、1994年からホンダワークス入りしドゥーハンとチームメイトになる。しかし1強時代とも言われるほど連勝していたドゥーハンのセカンドライダーという立ち位置で、ランク1位には届かなかったが、トップ争いをする実力は確実にあった。アレックス・クリビーレはドゥーハンのあとを継いでホンダに6年連続のメーカーチャンピオンをもたらしただけでなく、スペイン人ライダーとして初めてのトップクラスのチャンピオンになるという偉業をはたした。マルク・マルケスやホルヘ・ロレンソなどスペイン人チャンピオンの先駆者である。

1999 NSR500

1999 NSR500

1999 NS500

1999 NS500

1999 NS500

WGPといえど環境対策とマシン性能を抑えるために1998年から無鉛ガソリンの使用が義務化された。NSRが受けた影響は大きく、加速性能、最高速度が低下したといわれる。しかし終わってみれば、ドゥーハンは9勝で5連覇を達成。NSRは14戦13勝、唯一優勝を逃した第8戦も2位入賞と、圧倒的な強さが変わるところはなかった。翌1999年、ドゥーハンが負傷、後を引き継いだアレックス・クリビーレは、この#3のNSR500で16戦中6勝を収め、ホンダとNSR500は王者の座を死守した。チームメイトの岡田忠之はWGP500クラス参戦4年目。自己最多の3勝を挙げランキング3位を獲得した。6年連続でメーカー、ライダーチャンピオンを獲得したNSR500は、まさに完熟の時を迎えていた。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499.3cc(-×-mm) ●最高出力:180PS以上/12500rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:131kg ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

1999 NSR500

 2002年は2ストロークエンジンを主体としたGP500から4ストロークエンジンのMotoGPクラスに変わった最初の年。暫定処置として2006年まで2ストローク500ccとの混走を認められたが、ワークスチームは排気量上限990ccの規定の中で新しい4ストロークマシンを走らせた。しかし、いきなりサテライトチームまで切り替えることはできず、新開発の4ストロークV型5気筒のRC211Vを初戦から走らせたレギュラーライダーは、レプソル・ホンダチームのバレンティーノ・ロッシと宇川徹のみ(伊藤真一がスポット参戦で初戦の日本GPでRC211Vを走らせている)。他のホンダ系チームは2ストロークのNSR500を使った。そしてこの年が世界中のロードレースシーンで多くのライダーが駆り数々の栄冠を掴んできたNSR500が走る最後のシーズンとなった。
 このマシンはフォルトゥナ・ホンダ・グレシーニチームから念願のトップクラスで走ることになった加藤大治郎のNSR500。幼少からポケバイでレースを始め、全日本GP250ccクラスでチャンピオンを取り、2000年からグレシーニ・レーシングでWGP250ccに参戦。日本で走っている頃から物怖じしないクレバーな速さは折り紙付きで、翌2001年に250ccクラスチャンピオンを獲得してからのステップアップであった。小柄な体で公称180PS以上という2ストロークのモンスターマシンを巧みに操り、ヘレスサーキットで開催された第3戦スペインGPでは、記念すべきMotoGP元年のチャンピオンになったRC211Vのバレンティーノ・ロッシに続く2位表彰台を獲得した。シーズン後半からは加藤にもRC211Vが与えられので、このNSR500に乗ったのは第9戦ドイツGPまでである。なんとRC211Vでの初戦となったチェコGPでも2位に入り適応力の高さを発揮した。

2002 NSR500

2002 NSR500

2002 NSR500

2002 NSR500

2002 NS500

2002 NS500

2002 NS500

4ストロークのMotoGPマシンとの混走となったNSR500最後の年となった2002年。NSR500に有終の美をという配慮もあってか、最終モデルが加藤大治郎、アレックス・バロスらに託された。第3戦スペインGPで加藤が、第7戦オランダGPでバロスが2位に入賞するも優勝には届かず、残念ながら最後に勝利という結果を残すことはできなかった。

●エンジン:水冷2ストロークV型4気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):499cc(-×-mm) ●最高出力:180PS以上/-rpm ●変速機:6速 ●乾燥重量:131kg ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

再び4ストロークの時代へ。2002年〜 RC211V

2002 RC211V

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 2000年の4月にFIM(国際モーターサイクリズム連盟)は2002年シーズンからロードレースWGPのトップクラスを、それまでの2ストローク、4ストローク問わず500ccまでから、4ストロークの990ccまでに移行すると発表した。NR以来となる4ストロークエンジンを手がけることになったホンダは、すべてのエンジンレイアウトを検討しながらレギュレーションで4気筒と5気筒の最低重量が変わらないことに注目。得意なV型4気筒エンジンに1気筒追加し、前側を3気筒にしたV型5気筒20バルブというこれまでになかったレイアウトを採用。。とはいえ、VバンクはRVFなど90°だったV型4気筒とは違い75.5°。この挟み角なら90°V4と同様、理論上の一次振動を打ち消せてバランサーシャフトは不要。さらに気筒数を増やすことによって高出力に繋がる高回転化をしやすく、ピストンを小さくできるのでシリンダーからヘッドまわりをコンパクトにすることができるなどのメリットもあった。
 2ストローク500ccと同じタイヤを使うが、車重は重くなり、パワーも増大するためタイヤには厳しくなる。そのために車体は徹底したマスの集中化やフレーム剛性の最適化などを追求した。リアサスペンションのクッションユニットをフレーム支持せずユニットプロリンクを採用したのも話題になった。2001年の第24回鈴鹿8時間耐久ロードレースの決勝直前にミック・ドゥーハンと鎌田学が完成したプロトタイプで3周の走行デモンストレーションを実行、RC211Vが一般に披露された。さらに開発が進んだ2002年モデルは、バレンティーノ・ロッシが操り16戦中11勝、2位4回という抜きん出た速さでシリーズチャンピオンを獲得。2003年はさらなるパワーアップを果たし、トラクションコントロールを装備、バレンティーノ・ロッシが9勝して連覇を成し遂げた。メーカーランキングもホンダが2年連続の1位を獲得し圧倒的な強さをみせつけた。

2002 RC211V

2002 RC211V

2002 RC211V

2003年 #46バレンティーノ・ロッシ 9勝 ライダーチャンピオン。

2002 RC211V

2004年 #15 セテ・ジベルノー 4勝 ライダーランキング2位。

2002 RC211V

2005年 #33 マルコ・メランドリ2勝 ライダーランキング2位。

2002 RC211V

2006年 #69 ニッキー・ヘイデン 2勝 ライダーチャンピオン。2002年にデビューしたRC211Vは、バレンティーノ・ロッシの11勝を始め、宇川とアレックス・バロスにより3勝を挙げライダー、マニュファクチャラーズチャンピオンをホンダにもたらし、NRの雪辱を見事果たした。以降レギュレーションの変更により990cc最後の年となる2006年まで走り続け、2003年16戦15勝、2004年16戦7勝、2005年17戦4勝、2006年はニュージェネレーションと呼ばれるフルモデルチェンジバージョンが17戦8勝を挙げた。2007年からは800ccV型4気筒のRC212Vが2011年まで走り、2012年からは1000ccまで排気量が拡大されたことにより、1000ccV型4気筒のRC213Vにスイッチし今日に至っている。

●エンジン:水冷4ストロークV型5気筒DOHC4バルブ ●総排気量(内径×行程):990cc(-×-mm) ●最高出力:240PS以上/-rpm ●変速機:- ●乾燥重量:148kg ●タイヤ前・後:17インチ・16.5インチ

多くの名ライダーを育てた軽量クラスマシン NSR250/RS125RW

 NSR500のエンジンをちょうど半分にしたようなV型2気筒エンジンを搭載したホンダのワークスマシンNSR250は、前年500ccとのダブルエントリーが大きな話題となったフレディ・スペンサーのRS250RWをベースに開発され、1986年にデビュー。以降16年間に渡りWGPをはじめとして全日本選手権でも活躍した。WGPではアントン・マンク、アルフォンソ・ポンス、ルカ・カダローラ、マックス・ビアッジ、加藤大治郎がライディングし、7度のタイトルを獲得している。全日本でも清水雅広、岡田忠之、宇川徹、加藤大治郎がチャンピオンを獲得した。

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1993年 NSR250

 1993年、ロスマンズホンダチームから念願のWGP250ccに初挑戦した岡田忠之のNSR250は、前年にフルモデルチェンジをした2世代目であった。一軸V型2気筒のエンジンのVバンクは、90°から75°に狭められコンパクト化。フロントフォークは正立から倒立に。リアスイングアームがプロアームになり、ドライブチェーンは右側になった。1993年モデルではカーボンブレーキディスクを採用。岡田のこのシーズンの最高成績は2位のランキング8位。ホンダNSR勢は残念ながらチャンピオンを逃しロリス・カピロッシがランキング2位で終えた。

1993NSR250

1993NSR250

1993NSR250

1993NSR250

1993NSR250

1993NSR250

全日本選手権の250ccクラスで3年連続チャンピオン(1989~1991年)を獲得した岡田忠之が1993年、世界GPにフル参戦を開始した記念すべきマシン。HRC Rothmans Hondaからのエントリーで、第3戦日本GPと第8戦カタロニアGPで2位を獲得し、最終的なランキングは8位だった。岡田と全日本時代からのライバルであったヤマハの原田哲也が、岡田と同じくこの年に世界GPフル参戦。市販レーサーのRS250Rから念願のNSR250に乗り換えたロリス・カピロッシと激しいチャンピオン争いを繰り広げたが、最終戦の劇的逆転によってチャンピオンを逃している。

●エンジン:水冷2ストロークV型2気筒クランクケースリードバルブ ●総排気量(内径×行程):249cc(-×-mm) ●最高出力:90PS以上/12750rpm ●変速機:- ●乾燥重量:95kg ●タイヤ前・後:17インチ・17インチ

1997年 NSR250

 イタリア・ローマ生まれのマックス・ビアッジがオートバイのロードレースを始めたのは1989年の17歳。幼少の頃からレースに出ていたライダーが多い中では異例の経歴である。1990年イタリア選手権125ccチャンピオンを獲得し、1991年にヨーロッパ250ccチャンピオン、1993年にはWGP250ccデビューという間違いなく天才肌のライダーだった。1994年に世界チャンピオンになるとそこから破竹の勢いで4連覇を達成した。その最後の年となった1997年から4年ぶりにホンダに復帰。この車両は2世代目NSR250の最終型。お尻が下がったテールカウルは、後続にスリップストリーム効果を与えにくくするとして当時流行していた。

1997NSR250

1997NSR250

1997NSR250

1997NSR250

WGP250ccクラスで1994年から3年連続チャンピオンを獲得したマックス・ビアッジがアプリリアからカネモト・ホンダに移籍した1997年。ラルフ・ウォルドマン(ホンダ)、原田哲也(アプリリア)と三つ巴の激しい争いを制し、全15戦中5勝で自身にとって4年連続、ホンダにとって1992年以来のタイトルをこのマシンがもたらした。

1999年 NSR250

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 NSR250は強いライバルに対抗するために1998年モデルから3世代目になった。2ストロークV型2気筒エンジンはそれまでとまるで違うもの。一軸クランクから単気筒エンジンを繋いだような二軸クランクにして、Vバンク角は110°に広げられた。クランクは前後逆回転。登場した時はピボットレスフレーム、サイドラジエターだったが1年後のこれはその両方ともやめている。1996年からWGP250ccクラスに参戦した宇川徹は初期モデルから3世代目に乗ったライダー。2001年からトップカテゴリーにステップアップするが、これに乗った1999年シーズンが250ccクラスランキングでのベストでバレンティーノ・ロッシに次ぐ2位だった。

NSR250

NSR250

NSR250

NSR250

NSR250

大きく改良された1998年型をベースに、ライバルであるアプリリアRSV250に対抗するためより高速化が行われた。この#4は、宇川徹がホンダワークスとしてWGP250クラスにフル参戦したマシンで、開幕戦から3戦連続2位を獲得、続く第4戦フランスGPではついに優勝、その後も安定した戦いを続け、第12戦バレンシアGPで再び1位を獲得、16戦中11戦表彰台に登る大活躍でランキング2位を獲得した。

2001年 NSR250

 イタリアのグレシーニ・レーシングと契約してWGP250ccに参戦するようになった2年目の2001年シーズンは、加藤大治郎のひとり舞台だった。1993年に世界チャンピオンになったアプリリアに乗る原田哲也と争いながらも、このクラスのシーズン最多優勝記録にならぶ16戦中11勝をあげて世界チャンピオンを獲得。その功績により文部科学省からスポーツ功労賞を受けた。NSR250は前年モデルのフレームとは違う完全に新設計した別物。2軸の110°V型2気筒エンジンは熟成型だ。

2001NSR250

2001NSR250

2001NSR250

2001NSR250

2001年シーズンのWGPを戦ったのはNSR250の最終進化モデル。全16戦中11勝をマークした加藤大治郎が世界チャンピオンを獲得し、ホンダにとって1997年以来17度目の250ccクラス・マニュファクチャラーズタイトルももたらす。

2003年RS125RW

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 2018年シーズンで惜しまれつつ現役を引退してしまったダニ・ペドロサが、テレフォニカ・モビスター・ジュニアチームからトニ・エリアス、ホワン・オリベと一緒にWGP125ccクラスに参戦したのは2001年。まだあどけない15歳の時だった。デビューシーズンは2位を2回でランキング8位。2002年は優勝3回、2位3回、3位3回でランキング3位と着実な成長をして、アルミフレームのRS125RWに乗る3シーズン目となる2003年に優勝5回で125cc世界チャンピオンに輝いた。小柄なライダーが多い中でもとびきり小柄な体で最終的にはMotoGPマシンまで操った。ビューから2018年に引退するまでホンダ一筋であった。

RS128RW

RS128RW

RS128RW

RS128RW

RS128RW

RS128RW

RS125RWは、ロリス・カピロッシ、アンドレア・ドヴィツィオーゾ、青木治親など多くの有名ライダーを輩出している。ちなみにRS125Rの世界GP向けの仕様といわれるモデルがRS125RWだが、いわゆるワークスマシンではなく、市販モデルがベースのHRCのスペシャルキット装着モデルである。

1961年 第2戦西ドイツGP

WGPにおいて日本人ライダーの初優勝を飾ったのはRC162をライディングした高橋国光選手。その貴重な実況アナウンスのダイジェストです。ドイツ語ですが高橋選手の名を連呼する様子から、当時の状況が伝わってくるようです。こちらで動画が見られない方は、で直接ご覧ください。

[前編・RCレーサーの時代へ]

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