国産車BIG2スト大全 その5 封印・NC14

「さあ、みんなの手持ちの“引き出し”を開けてくれ。総力戦を始めるぞ」

 1980年初頭、ホンダ朝霞研究所(現二輪R&Dセンター)の技術者たちに号令が下った。“引き出し”とは、いつか役に立つことがあるかもしれない(ないことが多くても、だ)各自独自の研究を指す。その技術者魂の蓄積が、これまでホンダにどれほど役立ってきたか。
 その前、1974年にホンダの技術研究所は四輪開発専用の和光研究所と二輪開発専用の朝霞研究所に分離されていた。その朝霞研究所の現場の総帥は35歳の入交昭一郎。就任早々、入交は愕然とする。「新しい技術がホンダにはない…あるのは昔のレース技術だけ」翌年から入交は、ホンダのバイクを原点から見直すプロジェクトに着手する。例外なし。全ての技術者が取り組め、と。

 当時すさまじいまでの開発戦争が「世界一」を自負するホンダに襲いかかっていた。これに対して朝霞研究所では組織を変更して開発システムもシンプル化、ニューモデルを連発すべく“全員攻撃”による『GOGO作戦』と名付けたプロジェクトをスタートさせる。世に言う『HY戦争』が大詰めを迎えていたのだ。ヤマハは「ナンバー1になる目途がついた」と公言し「世界一死守」はホンダの命題となっていた。「ヤマハの機種はすべて出せ、持っていない機種も出せ!」かくして1982年ホンダは年間47のニューモデル(モデルチェンジ、マイナーチェンジを含む)を市場に送り込む。何と1週間に1台、新機種が誕生していたのだ。


1982年生まれのホンダ同期生たち。全部の車名を言えますか?

 しかし! オン・オフタイプ、スクータータイプ、スポーツタイプでホンダが弱かったのは意外にもスポーツタイプであることに行き着く。レースをやってないからだと見抜いていた入交は既に「レースはいろいろな意味でホンダの牽引力です」と河島喜好社長に直言。1977年、新聞に「二輪世界GP復帰宣言」が掲載されていた。
 

 入交が選択したのは4スト。かの “楕円ピストン”レーサーNRだ。ホンダが持てる技術を傾注し開発が続けられたNRプロジェクトではあったが、勝てない。レースは二番も三番もない。勝つことだけが目的なのだ。こうして連戦連勝のスズキRG−Γに勝つためNS500プロジェクトを急遽立ち上げる。
「何で今さら2ストなんだよ」
 予期していた通りの反応が噴出した。レース・ブロックの核、後に社長まで上り詰める福井威夫も入交に噛みついた1人だ。入交は静かに福井に言った。
「勝たなくてはNRもレースもできなくなる」。

 福井はあらためて驚いていた。2ストの図面の少なさ。NRの三分の一。「部品が少ないということは壊れる部品も少ない。GPですぐにでも勝つためにはNSしかない」。しかもホンダが2ストで参戦するからには、もう言い訳や酌量の余地はない。「勝たなければならない」のだ。

 福井の“申し子”NS500は、いかにもホンダが造る2ストレーサーであった。主流が「効率が最も良い」とされていたスクエア・フォアでロータリーディスクバルブに対し、ホンダがは112度V型3気筒(前1・後2)。こうすればエンジン幅は2気筒分だし、コンパクトで軽量。しかも吸気はモトクロッサーに使われていたリードバルブ。レース・ブロックに在籍し、かつてモトクロッサー開発を手がけた宮腰信一の「レースはスタートでのリードが決める。リードバルブは押し掛けスタートでエンジンのかかりがいい。スタート命! これを武器に闘うべきだ」という論法が採用された。乗り手について福井は1980年に渡英した際にマロリーパークで「誰も通らないラインを通り、リアタイヤを滑らせて、驚異的な走りをするアメリカの選手」を見いだしていた。その名は、フレディ・スペンサー。

 1982年シーズン。ホンダはNRと共にNS500をGPに送り込む。そしてこの年、急場しのぎとさえ揶揄されたNSとスペンサーは2勝しランキング3位を獲得。必然ホンダのGPマシンの主流はNS500になっていた。ちなみにこの年の王者は前年登場したスズキRG−Γを駆るF・ウンチーニ。スズキはメーカータイトル7連覇を達成。その開発技術はやがて量産車にも生きてくることになる。


1978年、WGP参戦のために朝霞研究所で結成されたNR(New Racing)グループ。後にHY戦争で陣頭指揮を取った入交昭一郎、ホンダ6代目社長の福井威夫、HRC元社長の金沢 賢ら蒼々たるがメンバーが集結した。「ただ勝つためではない」というコンセプトを掲げ、製作されたマシンが楕円ピストンのV4エンジンのNR500。前後16インチホイール、フロント倒立フォーク、リンク式リアサス、カウルをフレームの一部とするアルミモノコックフレームなど、未来に向けた革新的なレーサーであった。

1984年NS500の最終型(写真上)。最高出力は127ps以上/11000rpmにアップ、乾燥重量は113kgまで引き下げられている。すでに初代NSR500が投入されていたが、実績あるNS500も参戦し、フレディ・スペンサーが第5戦と第9戦で優勝している。動態保存確認テストの動画はで。

 この時の朝霞研究所は前述したように何が何でも「世界一メーカーを死守」すべくニューモデルを送り出していた。当時の研究員に言わせれば「産めよ増やせよ」時代。開発最前線を指揮する入交は“HY戦争”真っ直中で「朝霞研究所の開発能力を2〜3倍にする」と宣していた。それこそ技術者は自らの“引き出し”をフルに開けていたのだ。1982年には「マルN計画」が実行され、入交はHRCを設立する。研究所内のレース・ブロック(NR/NS開発)と耐久レースを統括する秋鹿方彦率いるRSCと本社のモーターレクリエーション推進本部の一部をひとつにまとめ、効率アップとパワーアップを研究所から独立させる形で大胆に図ったのだ。まさにイケイケの空気が研究所を席巻していた。

 その頃、営業から「NS500と世界チャンピオンにもなるであろうスペンサーの組み合わせを使わない手はない。若者ユーザーの主流250と、F-3(2スト250と4スト400によるレース規格)が人気の400クラスにも、ホンダが弱いとされるスポーツバイク市場を狙った2ストスポーツを」という“企画”が上がっても不思議ではない。そしてそれを受けある技術者の“2スト引き出し”が開かれた。
 1970年代後半、開発者は2ストの将来に期待を持ってはいなかった。オイルショックから派生した燃費問題、マスキー法案(排出ガス規制)やカリフォルニアの騒音規制という世界の情勢。いずれその波が日本にも押し寄せてくるだろう。開発者の目は4ストに向いていった。   
 その中でヤマハは「2ストの火を消すな」を合言葉に2ストむき出しの、最後の花道を! と250の開発を密かに、しかも急速に始めていた。かくして1980年、衝撃的にRZ250が登場する。空冷2スト・30馬力が常識の中、水冷2気筒35馬力。オンロード車初のモノクロスサス。乾燥重量139kg。火炎をモチーフにしたキャストホイール。GKダイナミクスによる垢抜けたデザイン。市販レーサーTZをベースにして開発されたレプリカ。絶対性能の高さ故「ピーキーな出力特性での扱いにくさ」さえ味方にしてしまう。「峠じゃナナハンをカモれる」風評はもはや風評ではなくなり、バイク少年の心をつかんで、現実としてのシーンが峠でワインディングで展開、RZはその先取り感覚で、たいした対抗馬も現れず、250ccクラスのトップセールスを記録する。ちなみに1981年の二輪車登録台数は300万台を突破。総生産台数は760万台に達し2位西ドイツの120万台を突き放して世界一。ただその背景には“HY戦争”などに触発されて過大な生産と出荷の影響もあり、名実共にとは、言い切れない“いびつな部分”もあるバイクブームでもあった。

 これに対して一方の雄、ホンダは1982年NR500の技術をフィードバックし、4スト王者の意地を注入し水冷V2エンジンので対抗。1985年に10万台突破リミテッドエディションが登場するほど別の方向で売れるバイクとなっていた。
「ホンダは2ストが嫌いという風潮があったか? 4ストは4スト、2ストは2スト。まったく別物という感覚はあった。それでも開発技術的に“高度”ということで4ストを好んでいた良い意味での“技術バカ”も多かった。そうであっても、今から見てもVTは名車。よく造った、出来た」という当時の朝霞研究所技術者の述懐もある。



最後の2ストになるかもしれないと、2スト屋ヤマハの思いが結集したRZ250。市販レーサーTZ250を目指して開発されたRZは、カウルやアルミフレームなど、後にマストとなった装備こそないものの、1980年代大きな社会問題にまで発展したレーサーレプリカブームの原点であることに間違いない。 打倒RZを旗印に4スト屋の威信をかけ製作されたNRレプリカVT250F。超高回転でありながら、素晴らしく扱いやすく、当初の思惑とは裏腹に初心者や女性ユーザーに大いに受けた。驚異的な販売台数だけでなく、エンジンは今日のVTRにまで続く超ロングセラーへと発展した。

 それはさておき、2スト250/400は「何でもあり」という勢いもあってか、開発が急がれ1983年2月1日にMVX250Fが登場する。NS500と同じ2スト・水冷・90度V型3気筒。ただしNS500が前1・後2気筒レイアウトに対しMVXは前2・後1気筒だった。後1気筒の慣性マス重量をコンロッドなどの往復運動部分で前方2気筒とバランスさせるなど理論上1次振動ゼロを達成し、RZを上回る40馬力、価格は42万8千円。カタログではNS500と並べられた写真が使われ「RACER—ISM」(レーサー・イズム)のタイトルが踊る。しかしVTのパーツが多用された外観はNSとは異なり、この写真は否応なくそれを見せつけてしまった。ただホンダは「250ccスポーツバイクシリーズは、2ストロークエンジンと4ストロークエンジンなどにより、9機種13タイプと充実」と2スト版VTのMVXに自信を持っていたようで、2ストが影を潜めた北米、ラスベガスでも発表会を開いた。 

 ところがMVX250Fを“悲劇”が襲う。朝霞研究所に1本の電話が入った。それは予想したものではあったのだが。
「ヤマハが3馬力高く、安い新型RZ-Rをぶつけてきたぞ」。
 1983年2月1日、MVXとまったく同じ日にヤマハが3馬力上回り、RZより8馬力アップさせたYPVS装備RZ250Rを発売したのだ。推し量ったように価格はMVXより3万円近く安い39万9千円。
 さらに大きな悲劇は2月20日にやって来た。それを聞いた朝霞研究所では「えー?」とため息とも悲鳴ともいう声が上がり、沈黙が社内を支配した。


4ストのVTに続き、ホンダが放った対RZ第二の矢がMVXだった。エンジンはワークスレーサーNS500のノウハウを投入した完全新規設計。補機類搭載スペースの関係からNSとは逆の前2、後1気筒のレイアウトとなったが、水冷90度V型3気筒はRZを上回る40馬力を達成。ただ、あまりにも急遽開発されたためか、エンジン以外はVTのパーツを多数流用しており、新鮮さという点でパンチに欠けてしまった。
●エンジン:水冷2ストロークV型3気筒●総排気量(内径×行程):249cc(47×48mm)●最高出力:40ps/9000rpm●最大トルク:3.6kg-m/8000rpm●全長×全幅×全高:2010×735×1155mm●軸距離:1370mm●乾燥重量:138kg●タイヤ前・後:100/90-16・110/80-18●発売当時価格:428,000円

 満を持していたスズキが45馬力のRG250Γを投入したのだ。決定的だったのはGPレーサーと同じ、市販車初のアルミ角パイプフレームを採用したことだ。アルミのフレーム剛性は各メーカー模索中だった中での投入。加えてレーサーと同じフルカウルを纏い、高性能のカタチもわかりやすく表現された。Γはギリシャ語のゲレイロ=栄光の頭文字と説明されたが、まさに栄光のデビューであり2スト・レーサーレプリカは一気に進化、さらに進化、もっと進化のブレイクをしていく。
 後にRZ-RやRG−Γと乗り較べたテストライダーは「スペック的にはライバルと遜色のない数字が並んでいるMVXだが、スタイルや機能のまとまりはライバルたちのほうが“レーシー”か」と印象を語っている。実はこのスパルタンなまでのレーシーさこそ、若者が心ときめき、求めていた要素だったのだ。



大ヒット作RZ250に排気デバイスYPVSなどを新たに装着してフルモデルチェンジを行ったたRZ250R。見事MVXを仕留め、第2ラウンドを席巻するかと思われたのだが……。 そのすべてに誰もが驚き熱狂したレーサーレプリカを方向付けたRG250Γ。今思えばバイク史を大きく動かしてしまったパンドラの箱だったのかもしれない。

 “悲劇”に襲われたMVXは……年間販売予定台数3万台としたが1983年販売台数1位はVT約3万台弱、2位RZ250R約2万3千台、3位RG—Γ約2万2千台と続きMVXは5位約8千台…今から見れば大善戦の数字だが、当時の主力戦線に投入されたブランニューモデルとしては及第点には及ばなかった。さらに初期生産車の一部に焼き付きや電装系のトラブルも発生し「MVXは焼き付く」との風評が広まってしまったこともあり、1983年から1990年でも登録台数は、年間生産計画とかけ離れたわずか約1万7千台に留まった。

 同時開発のMVX400F(NC14)は発表が迫る1983年3月〜4月ごろ朝研で社内プレゼンテーションが開かれた。
「国内における400クラススポーツバイクは、免許制度の関係から入門車であり、また実質上の頂点バイクでもあります。各社このクラスに最先端のテクノロジーや各種デバイスを投入しています。直4のCBX400F、水冷90度V4のVF400Fを発売、人気と好評を得ています。1983年1月〜3月実績で約9千台、62%というシェアが評判を物語っています」
「ここに革新的な水冷2スト90度V型3気筒エンジンのMVX400Fを投入します。V3エンジンは世界GPで連戦連勝の実績を持つNS500と同じコンセプトであり、400フルサイズという排気量でベストパフォーマンスを発揮します」
「400はスーパースポーツタイプが主流です。お客様層も10代後半から20代前半が中心で、ハイポテンシャルな最新テクノロジーに強い購入動機を持っています。イメージはレーサーメカニズムを持った最も戦闘力あるスーパーパフォーマンスのマシン。とはいえ本音ではお客様の主流をなすヤングは経験も浅いため、軽量で扱いやすいバイクを求めています。こうした欲求を適確にとらえて、レーサー・コンセプトによるハイパフォーマンス・ハイメカニズムを持ちながら、振動が少なく、軽量で扱いやすいレスポンスがセールスポイントです」
 開発・営業企画スタッフはアピールした。
 このあたりから「だからなんでMVXなの? よくわからん」という声がもれ始めた。
「一言で言えばNSレプリカ。ワークスレーサーを受け継いだポテンシャルは400ccでさらにNS500に近づいたのです。NS500が単なるピークパワーと最高速一辺倒のレーサーを抜き、GPレーサーの概念を変えたように、MVX400Fはトータルバランスによる高い戦闘力で他車を圧倒します」
 一瞬、失笑のような反応が聞こえた……と。


短期間で新開発されたホンダ初の量産車用の2ストマルチエンジン。ある意味でホンダらしい独創性、意欲的、斬新なエンジンであったが、あまりに短い開発期間も仇になってしまった。

カタログ用に撮影されたワークスレーサーNS500とMVX250Fのツーショット。よくある手法だが、おのずと両者の違いが強調されてしまう、諸刃の剣でもあった……。


発売当初のカタログ(左)と、車体色にガルホワイト×ブラックの追加がされた改訂版(右)のカタログ。短期間でカタログ改訂が行なわれ、人気ライダースペンサーが登場している事実が、MVXのそこにある危機を物語っている。

 52馬力のMVX400Fながらほとんど250のスペックを踏襲。ボアが47.0mmから58.5mmに引き上げられた他(当然キャブとプライマリー・ギア比、それに排気ポートのタイミングなども違うが)、ストロークは同じ。軸距離が5mm違うくらいが目立つ相違。「あまりに安易ではないか」という疑念が出席者からも聞こえた。
 案の定、スポーツタイプ開発部門以外からも声が上がった。その中には、当時指示する立場だった人も、その後責任者クラスになった人も含まれる。以下、その時のいくつかの“声”を並べておく。
「カテゴリーを広げていくのが今のホンダの作戦だが、アピールされたイメージと現実のMVX400Fは合っていないのに、それを発売するのか? ちょっとおかしいんじゃないか」
「そのコンセプトで今さらアルミフレームじゃないのを出したらおかしい。ホンダとして鉄のフレームでは出せない」
「VTのパーツ多用して、NS500と異なる気筒レイアウト。NSレプリカがウリなのに開発自体が誤っているのではないか。開発陣は何を以てNS500レプリカと言い切れるのか」
「ヤマハと較べて力の分析をやって、どちらが開発力があるかすぐ分かった。ホンダだ。それなのにホンダとして出すのがこのMVX400Fなのか?」
 最後に決定的とも思える声がGPレーサーNS500開発担当者から響いた。
「レーサーが3気筒だから量産車も3気筒だろうが、そのエンジンがまったくダメ。ダメなものは出せない」
 ついに現場の総帥は苦渋の断を下した。それがホンダの技術力、開発力にとって良い方向に導く朝霞研究所の力を信じて。

「MVX400Fは出さない。開発と生産を中止する。以上!」

 幸いなことに? 本格的生産は開始されていなかった。例えば少数でも生産されながら販売中止になった場合、251cc以上は出荷しない限り車検証が出ないため工場の資産となり税金を払って原価償却しなければならない。大きなリコールなどが出た時あり得る話だ。もちろんバイク本体はすべて潰される。MVX400Fはどうだったのか。
「おそらく250と400は同時に開発だろう。朝霞は大きな組織になっていたから我々ですらテスト室にあるバイクが250か400か、よく見ればわかるけれど、チョイ見では分からない。ホーク250/400なんてまったく分からなかった。先行した写真は朝研で試作車を撮った可能性が大きい」
 なんとか証言を集めても、MVX400Fの存在については推論でしかない。何故ならホンダにとって「存在しない」バイクだから。

 1983年、NS500とフレディ・スペンサーはYZR500の“キング”ケニー・ロバーツと最終戦まで争いを繰り広げ、念願のライダータイトルを獲得。急遽その技術はレプリカとしてNS250R/F(1984年4月25日発売)へメカ的というより思想的に真っ当に受け継がれる。何しろ市販レーサーRS250と同時開発され、共用パーツも多いというシチュエーションを実現。エンジンには軽量・スリム・コンパクトな水冷・2スト・90度V型2気筒・45馬力。V型の挟み角90度に設定することで1次振動を低減。角形断面パイプのダブルクレードルフレームはFはスチールだがRはアルミでフルカウル。シリンダー内壁をニッケル素地にシリコン・カーバイド粒子を分散した被膜でコーティングしたNSシリンダーにNSコムスターホイールなど最先端技術を採り入れた。結果、一気に開発されたNS250R/Fは1984年販売台数を約9700台とΓの約1万1千台に迫り、あえて言えばMVXの“失地”を挽回してみせた。



MVXの後継機として開発されたホンダ初の本格的2ストレーサーレプリカNS250R。1983年WGP500クラスチャンピオンをスペンサーが獲得したワークスレーサーNS500からフィードバックされたテクノロジーで、90度V型2気筒エンジンのシリンダー内壁をニッケル素地にシリコン・カーバイド粒子を分散した皮膜でコーティング処理したNSシリンダーを開発し軽量化と耐久性を両立させた。フレームは角型断面アルミパイプのダブルクレードル。ノンカウルバージョンのFはわざわざスチールフレームを採用しRと差別化を強調した。

●エンジン:水冷2ストロークV型2気筒 ●総排気量(内径×行程):249cc(56×50.6mm)●最高出力:45ps/9500rpm●最大トルク:3.6kg-m/8000rpm●全長×全幅×全高:2005×720×1125<1040>mm●軸距離:1375mm●乾燥重量:144kg●タイヤ前・後:100/90-16・110/90-17●発売当時価格:539,000<429,000>円 ※< >はF

 
 ホンダの開発力の凄さはこれで留まらなかった。1985年世界GPに前年投入された2代目NSR500とニューマシンRS(NSR)250-Wでスペンサーが500と250のWタイトルを獲得。その頂点ワークスレーサーNSR500/250のレプリカ版、大ヒットする集大成、NSR250Rへと結実する。その開発陣に与えられた命題は当時らしく「市販レーサーRSにナンバーを付けろ」だったという。

 覇権はホンダに微笑んだ。そこに一時しのぎという姿はない。正面から正統に挑んだホンダの開発力の凄さがある。それは、過去の遺産に頼るのではなく、むしろ過去に学ぶ姿勢が開発者に求められていることを、暗黙に語っている。
(文中、敬称略)


NS250Rの成功を受けて、さらなる覇権を目指し、レーサーRS250と同時開発されたNSR250Rは、1986年10月1日の登場と同時に大ブレイクを果たした。NSR250Rはその後モデルチェンジを繰り返し、1990年半ばまで発売された。

●エンジン:水冷2ストロークV型2気筒●総排気量(内径×行程):24cc(54×54.5mm)●最高出力:45ps/9500rpm●最大トルク:3.8kg-m/8000rpm●全長×全幅×全高:1985×640×1105mm●軸距離:1355mm●乾燥重量:127kg●タイヤ前・後:110/70-17・140/60-18●発売当時価格:579,000円

 エピローグに代えて。

「新しい国際経済体制に向け、アメリカが準備できていないのは、将来への期待の問題である。今後はアメリカ自身も含め、どの国も、一九四五年から七五年の間のアメリカのように豊になることはできない。(中略)ほとんどのアメリカ人の生活は今より質素にならざるを得ないだろう。しかし一九八六年半ばのアメリカでは、このことに対する認識はほとんどないし、ましてや心配などまったく見られない。いかにしてアメリカを期待値の低い時代に調整していけばよいのか、厳しい容赦ない新世界で生き延びるため、どうやってその豊かな資源を活用すればよいのか、必要な犠牲をどのように分かち合えばよいのか——そういった議論はほとんど行われていないのだ」(覇者の驕り——自動車・男たちの産業史:デイビット・ハルバースタム著・日本放送協会発行・1987年)。

●MVX400Fスペック(※編集部推測)
●エンジン:空冷2ストロークV型3気筒●総排気量(内径×行程):387cc(58.5×48mm)●最高出力:52ps/9000rpm●最大トルク:4.3kg-m/8500rpm●全長×全幅×全高:2010×735×1155mm●軸距離:1375mm●乾燥重量:138kg●タイヤ前・後:100/90-16・110/80-18
※参考文献
『いつか勝てる』(富樫ヨーコ著・徳間書店 1988年刊)
『語り継ぎたいこと』(本田技研工業・徳間書店 1999年刊)
『日本のバイク遺産 思い出の国産車たちPart2 1980年代編』 (野口愼一著 モーターマガジン社 2008年刊)

※この記事はミスター・バイク2009年8月号に掲載されたものを再編集しました。登場人物、記述等は取材を元に構築したフィクションだと思います(たぶん)。

[BIG2スト大全|BIG2スト大全 その5(最終回)]

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