Honda CRF1000L Africa Twinで、<br />
バハを駆ける──前編 国境の南へ。<br />
バハ・カリフォルニア半島への道。

ホンダモーターサイクルジャパン
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バハの事になると、妙にクドイのですが……。

 ルート66をアフリカツインで巡った数日間、アフリカツインが持つ“走ること”へのモチベーションと実力に驚かされながら濃密な時間、距離を重ねることがきた。乗れば乗るほど、もっと遠出がしたくなる。

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 ルート66をアンボーイから離れ、その余韻を噛みしめながら戻るL.A.(ロサンゼルス)への道。西を目指すフリーウエイで6車線の道に押し流されるうち、このままL.A.に行くより、バハまで行っちゃいたいね、と思いはじめ、その周期が1時間から5分になり、過去の記憶が映画のティーザーのごとく頭の中で繰り返される。
 
 そうだよ、L.A.に来る、それはバハへと行くことだったじゃん。そう、バハ1000へと行くために。
 
 1968年に始まった伝統のデザートレース、バハ1000。このレースに初めて挑戦をしたのは1987年。20周年記念の年だった。
 思い出せば、最初はそれこそ右も左もわからず、だった。アメリカ入国のイミグレーションでハラハラし、L.A.をクルマで流せば道に迷う。バハに乗って行くモーターホームを借り出すために、エル・モンテの町へと行けばもう迷子。いきなり乗った路線バスサイズなRV。ミラーの“見え方”も日本のクルマと違うし、車線変更すらおぼつかない。周りを見る余裕なんてなかった。クルマの運転だけじゃなくて。
 
 ファストフードで日本の感覚で注文をしたら、取っ手付きの紙袋二つを渡され、胸焼けするほど詰め込んでも食べきれなかった。今思い出せば笑いの種ばかりだ。
 そんな調子だからレースでも推して知るべし……。
 一緒に組んでレースに出ることを快諾してくれたのは、当時、サンディエゴに日本から留学中のライダーだった。プロのライダーになりたい、が彼の夢でもあった。何度もプレランをしないとバハはまともに走れない。レースで成績を残すため、彼はレース前1ヵ月間、週末毎にプレランをしに出かけた。そこに僕が加わる事になる。行動力に欠けた自分はそれを実行しなかった。もちろん、レースではそれが結果に跳ね返る。
 ライダー交代をする場所も間違え、ルートが解らないから、思い切ってアクセルが開けられず……。それでも妙に慣れた頃、アケアケで走り、今度は肝心なところでガス欠。時間が無駄に流れる。そこは砂が深く低いギアで回して走るコースの最奥部。だれもガソリンを分けてくれる余裕などない。しかもガス給油のピットの距離が長く、セーブしなければならない場所だった。
 「どうしたの?ベンちゃん」
 その時、助け船を出してくれたのは打田 稔さん(元ガルル編集長。今回、アフリカツインでの取材中に鬼籍に入られるとは……)だった。
「スペアのガソリン重たいからさ、あげるよ。肩痛くてさ」
「いいんですか?」
 ネンさんのバイクにはまだたっぷりとガソリンがある。
「オレのは楽勝だからさ」
 もう、砂漠の優しさに甘える他に手段はなかった。
 
 上位を狙う。プロのデザートライダーになる、チームグリーン(当時、バハ1000で強さを見せていたのはカワサキ。90年代中半までそれが続く)に負けない。トラブルフリーなら絶対、いける! それを目標とするパートナーの顔が浮かぶ。よーし、巻き返すぞ……、と飛ばす。
 ザラ目の砂。流れのない河床の中を行くマトミウォッシュ。何度も砂に埋まった岩にバイクは跳ね上げられ、ケツバットのようにシートが尻を叩く。その度に心臓が口元まで出そうになった。それでもXR350Rのアクセルを緩めるもんか、とバカな意地を張った。
 
 その後、河床のルートから出てコースは海岸沿いに北上を開始する。道らしい体にはなったものの、カチカチの土に岩が埋まったその道は、スピードが出しやすい分、岩を食らったときのケツバットも強烈だった。ものすごくビビッていたのを覚えている。
 自分が走るルートの半分も来ていない(いや正確にはプレランをしていないからあの時は解らなかった)。ライダー交代の場所までまだ200kmある。飛ばさないと──。取り憑かれたように全開で走る。視界に先行するライダーが見えた。ジリジリと追いつく。600のライダーだ。自分が乗る350だとなかなか追いつかない。前を走るライダーの埃で視界が悪い。絶対抜いてやる。正にあれは邪念だった。
 どんなに蛮勇ふるっても、岩にバイクが跳ね上げられと、心は思いっきり縮み上がる。そんな内なる攻防を繰り返した刹那、さっと視界がクリアになった。先行するバイクをしっかりと捕らえた。よし、パスするためラインを外す。イケる! 次の瞬間、強烈に跳ね上げられ目の前に見えたのはフロントフェンダーがあって、その下に猛烈な速度で地面が流れていた。
 バイクに伏せ、リアフェンダーの上に尻が来るようなポジションで追走をしていた。ハンドルバーの上に逆立ちするように跳ね上げられた体、蛇行するバイク、なんとか体は奇跡的にステップの上に戻ったが、右足が左ステップに乗っている。どうするの? この状況……。
 停まって体制を戻せばよいものを、「左足で地面を蹴れば、そのまま飛び上がりシートを飛び越え座れるはず。巧くいく」とそれを実践。左足で地面を蹴った瞬間、バランスを崩し、バイクは緩やかに左にカーブし、そのまま道路を造るのに岩を除けたガレ場に……。
 
 結果は大転倒。全身打撲、転がったバイクはハンドルバーが曲がり、夜間走行用のヘッドライトのレンズは割れていた。幸いなことにエンジンのケースなどにダメージはなく、走り続けることはできた。が、その先に現れた80kmは続くウォッシュボードをスタンディングで走ることができず、3速で一つ一つ越えて行くしかない。レンズを失ったライトは、提灯程度しか役に立たない。日が暮れてからは、頼りは月明かり。体中じゅう痛い……。
 
 交代場所に現れたボロボロのバイク。もう笑うしかない、という感じで彼は走りだした。上位なんてもう無理……。満足に貢献できない不甲斐なさは今思い出しても苦い記憶だ。
 
 翌88年のレースはほぼ同じようなルートだった。殆どの行程をプレランし、コースに馴れ、レースに挑んだ。半分以下だった成績はグッとあがって2年目は彼のレースではポイントも取れ、彼が闘ってきたSCOREシリーズ戦での最終結果に貢献することができた。
 3年目の89年、バハ・カリフォルニア半島を縦断するレースで僕達はベスト10以内を目指した。途中まで巧く事が運ぶ。ただ、些細な事からチームは2時間を失い、結果は20位以内だった。そして魅力と難しさ、その両面を体験する事になる。
 
 それ以来、半島縦断のレースを中心に参戦した。
 
 92年からバハでの大きな第二章が始まる。Team EL COYOTEを率いる作家の戸井十月さんと一緒にレースをすることになった。その後も95年、98年、2000年と続けて半島縦断レースを経験した。プレランとレースで半島を縦断する。他にも取材で2度ほど細長いバハ・カリフォルニア半島を縦断したから7往復はしているのに、しばらくするといろいろと忘れてしまう……。だから毎回新鮮なのだが。

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 Team EL COYOTEで最後にバハに行ったのは2011年のこと。時間が空いたのは、戸井さんが1997年型アフリカツインで巡っていた五大陸走破の旅を完遂すべく2009年まで集中していたことや、僕もバハにおいそれと出かけられない状況もあった。それでも戸井さんは、「五大陸走破が終わったらバハへ行こう」と何度も言っていたし、それが意外なカタチで実現したのが2011年だった。
 
 五大陸走破を終えて間もなく、戸井さんは肺に癌が見つかる。癌治療をする戸井さんは、「もうすぐ放射線も抗癌剤も終わるから、そうしたらバハへ行こう」となったのが2011年の夏のこと。久々のバハ。心躍るのと同量で不安があった。自分も忘れていることが山ほどある。

 あの年、戸井さんは治療と体力造りを同時進行で進めながらも、L.A.に乗り込み、レースに備えたプレランに入ることになった。
 結果的に戸井さんはプレラン中の転倒で腕を骨折。レースには出られなくなる。「来年だな」──不自由な腕でも戸井さんはやる気満々だった。
 そしてレース。戸井さんはサポートクルーとして帯同してくれた。そのレースで僕はダサイ理由で転倒。まるで1987年を思い出すような失態である。肩を打ち、サミットと呼ばれるガレ場も、1万個のウォッシュボードの連続も、250km以上を右手だけで片手運転で走るようなていたらく。ライダー交代のポイントまでまたもや大幅に遅れることになった。そこでバイクを渡したらホッとしたせいか、痛みが倍加した。結局、帰国して外科にいったら鎖骨骨折していたのだけど、バイクをリレーすることができたことには本当に良かった。そのことは天に感謝している。
 
 2012年こそは、とモチベーションが上がったが、戸井さんは再び癌と闘うことになった。バハに行くことは叶わず、2013年の暑い日、戸井十月さんは長い旅に出た。

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 やり残したこと、忘れ物、僕自身には言葉で表すのが難しい複雑な思いがバハに残る。チームで闘うバハ。だから心の中にはぽっかり空洞ができた。でも、やっぱりバハへ行きたい。そんな思いだけは消える事はなかった。
 
 そのチャンスが今目の前にある。アフリカツインは無言で誘う。どうするの、と。レースではない。アドベンチャー・ツーリングというモチベーションであの地に出かけたことがない。それも新鮮であり不安だった。結論、アフリカツインならナントカしてくれるだろう。そう思ってL.A.で準備をすることにした。

 
タイヤ、保険、地図……。

 やることは決まっている。まずバハの最新の地図を手に入れる。JAFの会員証をもっていれば、提携しているこちらのAAA(オートモービル・アソシエーション・オブ・アメリカ)の支店に行き、バハ・カリフォルニアの地図を無料で貰うことができるのだ。1枚ものの地図で、細長いバハ・カリフォルニア半島を網羅していて、とても使いやすい。
 今回、2ヵ所を回ったがいつもの愛用の地図はなく、メキシコ全図のような大きなマップを手渡された。たまたま在庫がないのか、それともGoogleマップの影響なのだろうか……。不安だが、日本から持ってきたナビもある。ギャザーズMのナビに、こちらで仕入れたガーミンの北米の地図データが入ったマイクロミニSDをいれたら、そのままこちらでも動き出す。ルート66行でも活躍してくれたが、バハ・カリフォルニアのマップも入っているのでそのまま頼ることにする。

 次にタイヤだ。今回、時間の都合で南部のラパスまでは行けない。目的地はバハ1000の時、何度も通ったカタビーニャにしよう。その周辺を走りたい。国境からおよそ500km。その辺からバハの特徴でもあるカクタスの数が格段に増え、大きなものが出現する。アフリカツインであの辺りを走ったら……!
 そんな思いを具現化するのに、サンド路を走りやすいよう、タイヤをオフロード向きのものに交換しよう。タイヤはこれまでアフリカツインの試乗会などで装着されていたコンチネンタルのTKC80だ。このタイヤはオフロード向けとはいえ、高速道路や一般道を走り、オフロードも楽しむアフリカツインのようなビッグアドベンチャーバイク向けのタイヤだ。アフリカツインとの相性が良いのだ。オンもオフもそつなく走ることが出来る。
 
 準備を整え、あとは国境を越える前にメキシコでの保険に加入したり、両替をしておけば万全だ。そして今回はエンセナダよりも南下するので短期ビザの申請をする必要がある。これは180日(半年)有効のものだ。 

 
いよいよ国境の南へ。

 初日は国境越えなど色々とあるし、国境から100kmほどの距離にある町、エンセナダに泊まろう。バハのスタートする町。少し思い出に浸りたい。
 L.A.から405号、そして5号線で南下を開始し、途中、先日も立ち寄ったオーシャンサイドのレストエリアで一休み。その後は一気にサンディエゴを越え、サンイシドロという最も国境に近い出口で降りて、ランチを摂りつつ、両替などをすることにした。バハ・カリフォルニアに行く時の、いつものルーティンでもある。

 サンイシドロから見える丘に並ぶ家々はもうメキシコ。ティファナの町だ。サンイシドロもメキシコ風味がかなり濃い。ランチを摂ったレストランもタコベルのようなファストフード的なものではなく、バハで食べるようなプリミティブなメキシコ料理がでてきた。僕には英語で接客するが、お馴染みさんとはスペイン語で会話をしている。
 
 サンイシドロから再びフリーウエイに乗る。この先メキシコ、USに戻るならこちら、という標識を抜け、クルマの流れは国境に向けどんどん進む。次第に車線は絞られ、誰かに割り込まれないよう周りのクルマが一斉に車間距離を詰める。そこはかとなく緊張した空気感。そしてアメリカからメキシコへ。
 ボーダーポリスは怪しい人間、怪しい積み荷がないか目を光らせる。アフリカツインに視線が集まる。やましい事は何もないが、こそこそした気分でそこを抜けた。

 正直ホッとした。毎度どうしてこんな気分を味わうのだろう。ものすごい精神の弛緩を味わう。
 
 エンセナダへと導く標識を辿ると、アメリカとメキシコの国境沿いを走る区間がある。そこからは国境の緩衝地帯があり、向こうの丘にはUSボーダーパトロールのクルマが点々と停まっている。ちょっとだけ殺伐とした気持ちのままその道を足早に走り去る……。
 毎度ティファナを通る時はいつもこんな気分。はやくエンセナダに行きたい。

 
有料道路でエンセナダへ。

 そんな気分も20分も走ると自分の中にあるバハらしい風景に吹かれるように入れ替わり、和んでくる。高台から家並み越しに海が見える。太平洋から吹く風は涼しく、その中へとアフリカツインが走る。ティファナから通る1号線には有料道路と一般道がある。いつも通るのは有料道路のほうだ。
 有料道路は山沿いを走り、海からは少し距離がある。途中、かなり高い崖の上を走る。ワインディングと大きな路面のうねりもある。西伊豆の海岸線沿いを走るようなイメージでもある。タイヤがTKC80 であってもアフリカツインは正確性をもってこうした道を駆け抜けてゆく。カーブの途中で下りから登りに転じるような場面でも、自信をもって走り続けることができた。

 日本の制限速度は世界的に見て高くない。ヨーロッパでは対向2車線の道でも、市街地を出れば100km/h制限が普通だ。そして、今走っているバハの道のような場所も珍しくない。そうした道を走る事を前提にした造り。それがしっかり伝わってくる。パニアケースを付けた状態でも、風の影響が少ない事も確認できた。いい旅バイクなのである。

 
そしてエンセナダ。

 夕方、エンセナダの町についた。その町の入り口では港の横を抜ける。大きなコンテナヤードがある。そして白い巨体が眩しい、大型のクルーズ船が停泊している。どこかいつもの感じと違って見える。これも5年の月日が変えたものなのだろうか。
 明日、港にあるイミグレーションにビザの申請に行こう。以前港沿いにあったその事務所の前辺りを探してみたが、あのうらぶれた感じの景色がなくなり、大袈裟にいえば横浜のみなとみらいのようになっている。あれ? 頭からいくつもはてなが出た。エンセナダも大きく変わっていた。
 
 バハ1000が海岸通りからスタートして、いつも河川敷に降りるスタート直後の名物コースから、歩いて10分ほどの場所にある今日の宿。値段は一泊50ドルほど。ガタガタ喧しいエアコン、シャワーヘッドの穴からやる気なくお湯が出るバスルーム、シャワーから出るお湯はしょっぱいし。古く湿った匂いのする部屋。そんなことまで懐かしい。

 その夜、エンセナダの目抜き通りにあるシーフードレストランに出かけた。宿から歩いて15分。通い馴れたその店は、隣にある観光客を目当てにした洒落たものとは違い、地味な印象がある。ビールを頼む。一本目を飲み終える頃、バスケットに山盛りのトルティーヤチップと、サルサが運ばれてきた。店それぞれに個性があるサルサ。それをチップにつけて食べると、それだけでビールがあと2本、3本はいける。バハだ! これだこれ。
 
 結局、ソパ・デ・マリスコス(海鮮スープ)、白身魚を丸ごとフライにしたものを頼む。解ってはいたが、食べ過ぎた。

 レストランを出ると、マリアッチを演奏して回る流しのバンドがいた。この町も変わったか、と心配したが、この店とその周辺はいつものエンセナダだった。明日はさらに南下する。ここから約400km先のカタビーニャへ。

 
町を出たらバハはバハのまんま。そのものだった。

 朝、ホテルから歩いてもう一度エンセナダの町に出た。イミグレーションを探し、ツーリストカードを貰う。そして朝食を摂ろう。

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 80年代後半、アメリカからバハへと国境を跨ぐと、人の暮らしや整然とした家並み、クルマもガラリと変わった。道にはまともなクルマがいない。ヘッドライトが片方ない、フェンダーがないクルマ、エンジン付きの荷車のようにうずたかく荷物を積んだクルマなど当たり前だった。
 90年代半ば、携帯電話の時代になって、普通の電話はないのにみんな携帯を持ち出した。アメリカとの経済政策で一気に貧しさが消え、今やアメリカよりもまともなクルマが多い、と思う程だ。

 そんなクルマが流れる一号線。この道はティファナの国境からエンセナダを通り、そして半島の南部まで続く一本道だ。この道でカタビーニャを目指す。エンセナダから30kmほどはいくつもの町を通る。クルマと人が多い。乗り合いバスは古いスクールバス、というのは変わらない。昔は1号線の王者のような走り方で闊歩していた緑とシルバーの長距離バスの姿を見なかった。

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 50kmほど走るとエンセナダの郊外、という雰囲気から一気にバハらしい風景へと変わってくる。山中の道を抜け、サント・トマスへ。このあたりはバハ・カリフォルニアでもお馴染みのワインの産地で、広大なブドウ畑がある。
「じっくりワイナリーを訪ねてみたい」とは戸井さんが生前言っていたこと。

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 バハ1000がこの地からスタートしたこともある。懐かしい。道沿いのレストランを併設したガソリンスタンドで燃料を入れる。2011年のバハ1000の時、最後のライダーサポートをしたのもここだ。朝9時頃だっただろうか。懐かしい。

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 そこからひたすら進む。サン・ビセンテ、コロネ、カマルゥ、そしてサン・クインティン。ラパスに行く時、何度も通った場所。何時もサポートカーに乗り、移動していた。
 だから風を浴びてここを通るのは不思議な感じだ。しかも旅するライダーとして。レースの時のテンションとは全く違う。そのせいか今日は距離感を感じる。使命感に燃え、移動するレース時とは違い、風景の一つ一つを噛みしめるように走ると、200kmも走ったサン・クインティン辺りでは、今日はここで泊まるか、とすら思うほど。途中、麻薬と武器の検問が何度かある。マシンガンを持った本物の兵士がいる。一瞬たじろぐが、それすら懐かしい。レースの時と違って「ステッカーはあるか?」と聞かれないのはちょっと寂しいが。

 レースの時はよほどいつもとは違った感覚なのだろう。道は次第に海に近づいた。1号線から海に抜けるのか、と思わせるダートの道が何本も走っている。これはバハに挨拶するでしょ。迷わずアフリカツインを走らせた。

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 左手の人差し指でオフロードに向いたセットにトラクションコントロールのモードを変更し、アクセルを開けた。ミラーを埋め尽くす砂埃。いくつも学んだバハでの事を思い出し、走らせる。ああ、この感覚。この場所は砂が柔らかい。というより、土が細かく、いずれこの場所にはものすごく細かな土の粉が溜まった道になる。バハ用語で“シルトベッド”だ。
 
 短くも濃密な時間だった。すっかり埃まみれになったアフリカツインは、それでも頼もしさを増し、一号線を再び南下するのだった。

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 エル・ロザリオにあるガソリンスタンドで給油をした。この先、しばらくガソリンスタンドはない。ガス缶から給油できる場所はあるが、必ずそこで給油できるとは限らないからだ。スタンドの店員もバイク乗りとみえて、アフリカツインに吸い寄せられてきた。この辺りの人はバハ1000に慣れているから、ホンダCRFという名前には詳しい。バハを走るレーサーの多くがCRFを選んでいるからだ。

 だからといって、これがバハを走る新型か、というような的外れな質問もしない。このバイクの用途を理解した上で、新型はどうだ? と尋ねてくる。乗り味を伝え、メーターの表示を見せ、そして音を聞いてもらう。
彼は一言。「いいモトだね」と。
音を聞いて「2気筒だね」とも。
CRFカラーとスタイルを褒める玄人ぶり。さすがです。
 
 この日のランチはこの町にあるママ・エスピノーサで、と決めていた。バハを走るライダーや、チームが多く立ち寄ることもあり、レースの歴史がそのまま年輪のように見て取れるレストランだ。ここでもティピカルなバハの料理が食べられる。

 このレストランで食事に入ろうとしたとき、中から出て来た家族にアフリカツインは囲まれた。ニンジャに乗っている、という24歳の彼は迷わずアフリカツインに跨がった。
「これはDCTの方か? 走りはどうだ? 僕のニンジャは290kmまで出るけど、これはどうだ?」
 妹と彼の母親がそれに混ざり、記念撮影会に発展。
「キミも入れよ」「すいません、お邪魔します」と、すっかり彼らのペースになっているのが嬉しおかし。
 
 ここバハでもバイク乗りとの親善大使役をアフリカツインはバッチリ務めてくれています。

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そしてカタビーニャ。

 この日はホテルに入るだけ。昼夜兼用のつもりでランチを食べる。ママ・エスピノーサを出てしばらくすると日が暮れた。本当は夜の道を走るのは得策とは言えない。120kmほどを慎重に走る。メサと呼ばれる高台の大地を走って、他のメサへと移る時、道が峠道のように下り、そして登る。紺色の空、道端のサボテンが黒いシルエットになっている。その数が増えその高さが見上げるようになる。岩山とサボテンの中を走って行く。カタビーニャに近づいた証拠だ。
 しばらくワインディングが続く。気温がグッと下がる。ウエアのベンチレーションを苦労して閉める。止まってグローブを外し、ファスナーを締めればいいものを。オドメーターを見ながらあとどれくらい、というカウントダウンをする。エル・ロザリオを出たら、急カーブ!という看板が度々出てくる。ホントに掛け値なしの急カーブだから注意が必要だ。

 昼間、この辺りは風景がスゴイ。時間を見つけてもう一度走ろう。アフリカツインのLEDライトをハイビームにしても、アスファルトの上だけは行く先を照らすが、月明かりを頼りに割れたヘッドライトで走ったあのときのように、周りの闇が光りを瞬時に吸い取った。
 
 カタビーニャのホテルが右側に見えた。敷地に入ると、懐かしいエントランス。四角い建物もそのままだ。フロントでキーを受け取り、中庭の真ん中にあるプールの脇を通り、周りを取り囲んだ部屋のドアに番号を探す。
 カギを開けた時の重み、開き方、そして開けた瞬間、部屋の中から漏れる空気の匂い。どれもあの頃のままだった。ここに来るのは2000年以来。ひと心地ついて中庭に出て空を見上げた。気が付かなかったが、星の数が凄い。
 明日は記憶を辿ってこの周辺を走ってみよう。国境から500km。ようやく身体がバハのことを思いだし、少しずつ順応し始めた感覚があった。ビールが効いた。地図を広げたまま朝になっていた。(後編へ続く)

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 次回、いよいよディープなバハ・カリフォルニアへとアフリカツインで踏み込みます……!

 ※ウエア協力:SPIDI:



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